第8号 H12.2
巻頭
「区切りをつける」
住職 標 隆光
今年は、西暦二〇〇〇年という一つの節目の年となりました。西暦とはキリスト教の教祖キリストが誕生の年から数えだした年号です。もう一つは世紀末(ミレニアム)といって奇怪なことが起こると吹聴されることもあります。この世紀とは、百年づつの区切りを数えたものです。そして、キリストが誕生した年の最初の百年を一世紀としたために一〇一年目が二世紀となってしまい、世紀と年号の差が出てきたわけです。また、西暦は現在社会の一般的な年数表示として通例化していますが、本来のキリスト教のイメージは薄らいだものとなってしまいました。特に、今回の年の区切りは二〇〇〇年問題という「コンピューターが関わる誤作動が起こらないか」と心配もありましたが、無事通過してくれました。
日本においては、昔から元号という呼び方があり、法制化までされています。しかし、この呼び方にも問題があって、何年前と計算する時、未だに「今年は昭和だと七十五年だから」などといって引き算をしています。また、皇歴や仏歴といったものもありますが、一般化されていません。
さて、このように物事や時間に対して区切りをつけることは気持ちの上で重要な意味を持っています。時間には全て区切りがつけられています。一秒、一分、一時間、一日、一週間、一ヶ月、一年・・・。一つ区切りをつけることで、反省の上にまた新たな目標が立てられるのです。
仏教でも葬儀後の供養として初七日・・・七七日忌(四十九日)や一周忌、三回忌・・・・といったご供養をしていきながら心の整理をしていくのです。それ以外にも、地鎮祭(起工式)をおこなったり、落成式をおこなう事も新たな気持ちを持って対処する意味も持っています。こうした区切りを持つことは人生の中で非常に多くあり、その時々に新たな心構えを心に刻んで向上していくのです。
西洋の歴史の区切りを利用してわが身を振り返りこの先の人生の柱を作っていただきたいと思います。
(今号より幅広い方々にご購読頂けるよう『明王寺だより』と変更し「檀信徒」の文字を除きました。ご了承下さい)
心の教育 8
「やって良いこと悪いこと」
躾という言葉が嫌なイメージ(厳しい・堅苦しい等)で捕らえられていることに家庭教育の問題点があると感じます。
親は子供に対し、やって良いこと悪いことを教える義務があります。特にやってはいけないことは「人様の迷惑になる」「自分よがりではいけない」「相手のことを考える」など対人関係のことが中心となります。また、だらしない態度や言動は人間としての価値(品位)を下げ、秩序を守れない人間となってしまいます。
教育の根本は善と悪を解らせることが基本です。善いことをしたら誉め、悪いことをしたら叱る。この基本が子供の躾の第一歩です。子供が大人と同じ様に出来ないのは当然なのに、そのことを忘れてしまって、上手くできないからといって叱ってばかりいるのが躾であると勘違いしている親御さんが多いのも事実です。最近では中学・高校の年代で親のほうが手を拱いている姿をみかけます。そこには小さい時からの躾が行き届いていなかった結果が現実として現れているのです。
善悪の教えと誉め叱る実践を忘れずに家庭教育を進めて頂くことによって秩序ある平和な社会が生まれるのです。
お釈迦様の時代も世の中が乱れていて、その秩序を回復するために、教えを広めて歩かれました。そのことは「法句教」というお経に示されています。(次号以降にご紹介します)
幸福を考える 8
「家 内 安 全 と は」
数多くある祈願の中で「家内安全」を願う人は非常に多いものです。しかし、家内安全という言葉の中には、多数の意味が含まれています。家族全員が幸せであること、災難が及ばないこと、健康でいられること、一年無事に通れることなど、全てが当てはまることだと思います。このことは一家の長たるご主人が家族の無事を願って祈願する事柄です。
とかく安穏(平穏)を願うことが強調されますが、実のところは家庭内がどのくらいまとまっているか、家族の意思疎通が出来ているかということが重要なのです。
家庭とは親近の個々の集まりであって、苦楽を共にする集団です。個々の気持ちが把握でき始めて一致団結できるのです。強い絆で結ばれているからこそ、相手の気持ちが理解でき、その愛情が伝わるのです。
生きていくことの辛さも、解り合える人がいるからこそ耐えていけることを忘れてはいけません。また最近では、子供(未成熟の子)の反論に対し、相手を納得させることが出来ずに放って置いた結果が、親の言うことを聞かない人間を作り上げています。特に難しい三世代の家庭は主が中心となってその調和を取って平穏な家庭を構築する努力が必要です。
健康長寿の実践 4
「ストレス解消法と心の癒し」
近代社会が進むにつれて、何もかもが便利で不自由でないのが当たり前の環境になってきています。しかし、そのような中で少しでも自分の思うようでないと不平不満を並べ立てる人がいます。自分の思ったとおりに物事が進まなかったときや、何時も我慢を強いられているときなど、発散しないで心の中に溜めてばかりいると何時か爆発したり、その状態が長く続くと、神経が侵されて自律神経失調症やノイローゼといった精神障害になってしまいます。
精神的にイライラすることは自分の心が狭い証拠でもっと寛大な心を持ち合わせ、相手を許すことや落ち着いた口調で感情的にならずに会話が出来るようになることが重要です。
常日頃から気分をリフレッシュして、スッキリとした気分になれることが大切です。その方法は、お酒を飲んで陽気になったり(飲み過ぎて我を忘れてない程度)、入浴中にリラックスした気分に浸るのも方法です。最近では、アロマセラピーという言葉がよく使われますが、良い香りが気分を落ち着けてくれたりする効用があったり、他にも癒しの音楽などでも同様の効果があります。こうしたことでもストレスの解消が出来るわけですので、大げさにスポーツなどに取り組まなくても十分解消できますのでお試し下さい。
仏教からきた言葉
我慢
我慢といえば「辛抱」と同じように使われて、一般によい意味に取られています。
しかし、本来の意味は「何事にも自己中心的で、心が高慢である」とか「うぬぼれている、ごうまんだ」といった意味なので少しも良くありません。
仏教の教えでは、人間が持つ煩悩を四つに分類したときの一つに数えられ、また、慢も七つに分類されています。たとえば能力が同じくらいの人に対して自分の方が勝っていると信じる「過慢」、はるかに自分より勝っている人に対しては自分と差がないと信じてしまう「卑慢」など慢心(おごり高ぶる気持ち)を表す意味合いがあります。
悪い意味で使われていたのは室町時代ぐらいまでで、次第に現在使われているような意味となっていきました。これは我が強いことで負けん気が強いことを意味するようになり、次第に頑張りが利くことが我慢することの意味となったと考えられています。
次に我慢と忍耐は少し意味が違ってきます。我慢は、一時的で肉体的な中に我を張るとか強情などの意味を持ち、忍耐の方は、長時間にわたり肉体的にも精神的にも強固なものを言います。
現代社会の構造はストレス社会と呼ばれ、殆どの人が日常生活の中で忍耐と我慢を強いられる生活をしていることもこの言葉が多く使われる理由ですが、平穏な世の中となってこの言葉を使わなくてよい時代が待ち望まれます。
平成十一年度「冬至祭」開催ご報告
冬至祭当日の早朝、目を覚まし薄闇の中、空に目をやると雲なく、少しばかりの星が見えました。心配していたお天気も晴れ空の案配にホッとしました。テレビで最低気温はマイナス四.五度とこの冬一番の冷え込みと報道していましたが、日中は風もなく最高気温も十二度まで上がり絶好のお祭り日和となりました。
午前八時半にはお檀家さんの奥さん方とお手伝いの女性の方たちによってカボチャ料理やカボチャほうとうの仕度が始まりました。
お祭りの準備も整い、開催を告げる花火が打ち上がりました。十時半の受付に合わせて各方面の皆様が続々とご参拝になりました。「今年は人出がいいですね」と受付係の方がご報告頂いたとおり、祈願受付所やお札所は人がきれることがないほど盛況でした。
十一時過ぎには『仏教法話』の時間となり、住職から真言(陀羅尼)についてご解説がありました。以下に書き述べます。
「真言宗という宗派の名前であるこの真言とは、真の言葉と言う意味から仏教本来の言語を称える宗派と言うことになります。仏教で読まれるお経の殆どは漢文で読まれており、中国で漢訳された教典が日本に入ってきたために日本でもそのまま漢文で読まれるようになったのです。つまり、中国で訳されたお経はその元の言葉で書かれたお経を漢字の意味に当てはめて翻訳されていった訳です。ここで言う元の言葉とは仏教が興ったインドやネパール地域で使われていた『サンスクリット語』が元語なのです。日本では梵語という呼び方をします。
このサンスクリット語で読まれた呪文を「陀羅尼」といいます。この陀羅尼と言う字もサンスクリット語のダーラニーという言葉の音写文字です。この真言(陀羅尼)は仏様の名前や仏様の功徳、教理を説くものなど数多くあります。
それ以上に重要なことは、密教における三密(身密・口密・意密)の修行がやがて即身成仏に至るという根本の思想があります。身密とは身体を使うことで手(指)で印契(印)を結び形を作って一つの意味を表します。口密は声を発することで真言を称えるのです。意密は心(頭)の中で想像(観想)することを指します。つまりこの三つを同時に行うことが三密修行なのです。しかし一般の皆様には三密を覚えるのは少々時間が掛かります。そこでお坊さんに代わりをしてもらい願いを叶えてもらうわけです。そうはいってもいつもお坊さんが近くにいてはくれないので、自分で行わなければならないときもあります。そんなときにお不動様のご真言である『慈救の呪』を口で称え、金剛合掌(印を結ぶ)をして、心の中にお不動様のお姿を思い出して、一心に助けを求めたり願をかけたりすることが三密加持となって成就されます。どうか『慈救の呪』は覚えていただければきっと役立つ時があります。」 以上、法話抜粋
法話の後、白根町飯野在住の中沢勉一様の音頭によりまして弘法大師様の御宝号である「南無大師遍照金剛」を百八遍、皆様と共に唱和いたしました。
正午にはお檀家の奥様方が作られた「無病息災カボチャぼうとう」をご参拝いただいた方にお召し上がり頂きました。
今年も皆様方からとてもおいしかったとご好評を頂きました。
その後、住職の挨拶があり、午前中、法話でお話があったご真言をお称えました。お不動様の『慈救の呪』と薬師如来様の真言と光明真言を、今年からお招きした八田村長谷寺の副住職をお招きして、太鼓の音頭と共に全員でお称えいたしました。
続いてカボチャの煮物を頂きながらお茶のご接待があった後、予定どおり二時半から『護摩法要』に入り全員の方たちに護摩壇の周りを行堂しながら護摩の煙を仰いで体の思わしくないところをさすりご祈念していただきました。
今年はUTY・テレビ山梨のテレビ取材がありました。『甲斐百八霊場巡り』という番組作成の映像取材でした。五月二日(火)の午前十一時二十五分に放送します。ご参拝の方の中でも、テレビに映られる方もおられるかと思います。当日の放送をお楽しみにしてください。
年を重ねるごとにご参拝される人数が増え、数年来、前年を上回るご参拝を頂いております。本年も三百五十軒余りのご祈願を受付けました。またご案内に同封致しました、祈願札に願をお掛けになられた方は実に、千二百余名にのぼりました。これも一重にご本尊のお不動様と、お薬師様のご加護と皆様方のご信心の賜のと有り難く思う次第でございます。
寺からのお知らせ
柴灯護摩法要(火渡り行)及び稚児行列
平成十二年三月十二日(日)雨天の時は中止
午後一時半 稚児行列出発
午後二時 柴灯護摩法要〜火渡り行
午後三時 終了
詳しくは同封の案内をご参照ください
本堂を再建することが、一月二十三日に檀家の皆様と信徒の代表の方たちの会議によって、正式に決定されました。
これに伴いまして建設委員を設置致しました。また本堂建築資金は檀家十軒をはじめ、信徒の皆様や多くの方々から募らねば、完成に至らないところでございます。このことをお含みいただきまして、お願いに上がりました節は、ご快諾にてご寄付賜りますよう切にお願い申し上げます。
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